明治4年─1871─の4月16日玉名市石貫のうつろぎ谷を舞台に、仇討が演じられた。
討つ手は、江戸の肥後藩士下田平八の妻田鶴と一子恒平、弟の島崎真八と同中津喜平の妻寿乃。打たれたのは入佐唯右衛門と言う藩士であつた。

文久6年ー1861−4月6日。江戸細川藩の竜の口藩邸で、下田平八と中津喜平の両人は同僚の入佐唯右衛門と口論になり、入佐は2人を切り殺して藩邸を脱走。行方をくらました。直接の理由は分らないが、当時の肥後藩には、藩校時習館の流れを汲む学校党、横井小楠らの実学党、宮部鼎蔵河上ひこ斎らの勤皇党の3派があり、幕末の緊迫した情勢の中で激論が交されたあげくの犯行と見られる。
このことが熊本に伝わるや、下田平八の妻田鶴、中津喜平の妻寿乃は悲嘆にくれた。
その頃武士が非業の死を遂げた場合は、家名断絶、知行は召上げとなつていたので、下田田鶴は思案の末、家、屋敷家財を売り払い、7人の家族を連れて移転し、行商をして毎日苦しい生活に追われる身となつた、しかし気丈な田鶴は、胸中ひそかに仇討の念を抱き長男の恒平にもその意を告げ、一生懸命剣道の稽古に励ませた。
中津寿乃も、5人暮らしであつたが 貞節な婦人であつたと言う。家、屋敷を処分して親戚をたよつての浮き草のようなその日暮らしが続いたが、汚名を注いで家名を再興したい胸中は、田鶴と同様であつた。

文久、元冶、慶応、明治と世情もどんどん変つていつた。
徳川幕府は、大政を奉還し、新政府が樹立され、明治4年廃藩の声が聞こえる頃、入佐唯右衛門」は山口藩の手によつて捕らえられた。竜の口の事件以来10年の歳月が経つていた。
この情報を受けた肥後藩では、当時定回り役であつた石原運四郎と増見某の2名に身柄の受け取りを命じた。
石原運四郎は高瀬の生まれ。林桜斎の門に学び山鹿流の兵法に通じ又示現流をよくした。この知らせを聞いた田鶴、寿乃らはどの様にして仇討をするか談合した。藩の手に渡つたならば、藩の手によつて入佐は処刑され、永久に仇討の機会を失うのではないかとの心配が残つた。この上は受取り役の石原らに仇討の機会を与えてもらう様頼む以外なかつた。

出発前に訪問を受けた石原もかねて仇討の話は聞いていたし、この母子の心情には大いに同情したが、ことは藩命である。入佐を無事に熊本まで連行するのが役目。途中で討たせたとあっては役目の怠慢。どの様な処罰を受けるか分からない。仇討か藩命か石原もためらわざるを得なかった。
後年紳風連の義に投じたほどの人である。自分は如何なる処罰を受けても母子の本懐を遂げさせるのが武士の情けではないか。深く決心して母子の願いを快諾して帰した。
明治4年─1871─4月16日。南関を出発して高瀬─現玉名市─に向かう途中の石貫うつろぎ谷に付いた時、付き添いの役人が唐丸籠の中から入佐を引出し、脱いだ羽織の上に座らせた。その姿はひどくやつれいていた。

背後に回った恒平は、19才の立派な青年になっていた。
─10年も憂き辛酸、ここで会うたは優曇華の花 盲亀の浮き木───長長の申し立てであったと言う。刀身がひらめき、入佐の首が胴を離れた時、寿乃は夫の形見の短刀で喉元を突き差した。
茲に永年の本懐を遂げたのであった。
下田田鶴35才、子恒平19才、中津寿乃45才であった。助太刀に、下田平八の弟、沼山津郷の郷士、島崎真八が付き添っていた。
遺体は、石貫の広福寺に埋葬されたけれども、後日熊本より引き取りに来たと言う。
その後、広福寺には、入佐唯右衛門の供養塔が建てられている。
護送役の2人はその後、熊本へ帰ると、ただちに藩に報告したけれどもお咎めはなかったとの事である。
石原運四郎はその後、明治9年の神風連の乱に参加して戦死している。
気骨の武士であったようである。
その年7月13日 藩府は復讐を遂げた恒平に、家禄を遣わして跡目相続を許し、又田鶴には夫平八が無残の死を遂げた後、再び配偶をすすむる者もあったけれども再婚する事なく舅姑の重き病を介抱し、悲涙貧苦の中に3人の子を教育し、婦たる道を失わず宮寺に祈願を続け、心に仇討を念じ続けて其の情誠が通じたのか、見事復讐を遂げたのは奇特であると其の略歴を掲示して諸民に告ぐとの高札を立てて公示し、猶嗟嘆の余り金子千匹を賜っている。又田鶴は、永年仇討を祈願していた盲観音堂に仇討が成就の後、報謝塔を寄贈している。
この後、明治4年11月23日。金沢の本田家の家臣が、主君の仇討を果たし、仇─かたき─の首を主君の墓前に捧げている。明治の忠臣蔵と呼ばれる所以である。しかしこれは12名が切腹、他は懲役となっている。
又、明治12年2月17日には、旧秋月藩で明治維新の頃、惨殺された藩重役の息子であった、臼井六郎が当時裁判官を勤めていた父の仇を討ち果たしている。しかし、これは無期懲役となっている。
この他にも、数件の仇討が起こっているが、総て犯罪として扱われている。

これらに比べて、玉名市石貫の仇討は、
1. 藩府は仇討を激賞して高札を揚げた
2. 仇討成就後両家共に断絶されていた家名が再興された
3. 仇討は見事であると藩府より賞賜として金子を賜っている
4. 仇−かたき−を下関から熊本迄護送の大役を仰せつかっていた石原運四郎他1名に対してお咎めがなかった
仇討禁止令は、明治6年2月5日に発布されている。

この様に、玉名石貫の仇討が、鎌倉時代以来の我が国伝統的風習とでもいうべき仇討の最後のものである。

日本最後の正式の仇討は、玉名石貫の仇討が最後である。




 参考文献資料
■ふぁみりー熊日 平成5年4月16日号
■日本最後の仇討掃苔禄 熊本日本談義
(昭和26年6月号 宇野廉太郎著)
■日本仇討百選
■玉名市文化材めぐり 田添夏喜
■日本最後の仇討 中野俊良





 日本最後の正式の仇討の地 近郊図





玉名カントリークラブ 事蹟表示板



仇討の地入口 はつみ美容室前 右を見る

仇討の地入口 はつみ美容室前 左を見る

仇討の地 入り口

仇討の地より、高瀬、南関道路方面を見る

仇討の地への道


日本最後の仇討の地 碑