もゆかずに居た所、其翌年二月頃、唯右衛門が岡領内に潜伏して居るとの事で、恒平縁家の者共が探索に赴くとの事を聞き、復讐の覚悟で兼て夫が差していた短刀を持って怨を晴らさんと里方の甥横田栄喜を連れ、同月八月より岡領の界迄行き、潜かに探索したが仇の行方は終に分からず、同二十日空しく帰って来た。

寿乃の一家族の養母拜に養弟及び実母それに娘と自分等、夫婦都合六人暮らしで生活も中々難渋であったが、寿乃は兩姑への仕へ方能く行届き、木綿仕事を我慢出(がまだ)し兎や角と過ごしていたが、夫変死の為、家名断絶に就いては一層生活困難となり、途方にくれ遂に家、屋敷も売却した。
尤も御救い米も頂いては居るが、夫存命中の借財等の後始末に仕向けた。
万延三年七月に養母が病死した際には、歩跣(かちはだし)で駈け廻り、葬式入費の世話等相應に処置し、其後養弟は縁家より引受け後、西光寺へ加勢に行き夫の実母は其実家へ帰っていたが、明治元年十一月に病死し寿乃は里方へ行く筈であったが、実父慶助の跡目は株譲りで寿乃嫁娶後喜平は入聟の形で、実母共に慶助方へ来て同居して居たのであったが、変死したので一方は名目迄で無きもの同様だから寿乃は行くべき里方とてはない、それで縁家等へ暫くづゝ逗留して居た。
是といふも仇の行方明り兼、せめては再び家名を立て度いとの念願であった為であったらう。
然るに、明治二年娘十七才で縁家の則元惣の養子融へ嫁したから引き取り、渡鹿村の馬場直右衛門方へ居付。
縁家内の裁縫等加勢して居た所、恒平列が復讐に行く事を聞き知り、一旦は娘と共に出かけやうと覚悟したけれ共、差留る者があって猶豫して居たが、恒平列が下関で探索の末、唯右衛門が囚人になったとの事を聞き、故夫が愛蔵の短刀を帯び、四月十一日から南関御境目迄赴き、同十六日に内田郷石貫村で恒平(十九才)が復讐の節。寿乃も手を下し、慈に多年の本望を遂げた。是も実に貞操に於いても感心な事であった。


上は当時の肥後藩の監察係の調査書に因ったものであるが、惟ふに、此兩未亡人の如き、さまで文字上の学問の素養とては無かったのであろうが、其行の上に現はれた所為は実に立派なもので、たとへ時変換遷の今日とは云へ、現代相当の教養ありと自任する女性をして其精神上に於いては顔色なからしむるものはないであらう。
下田平八並に中津喜平は剣の道は相当な腕前であったので闇討でなければ殺されはしなかったのである。
尚島崎眞八、下田田鶴、下田恒平(十九才)中津寿乃により、多年の念願であった入佐唯右衛門の仇を討ちtるために家は再興されたとの事である。其後、裁判所に勤めたとの記録あり(裁判所に勤務したのは下田恒平か下田哲三かは不明である)。
入佐唯右衛門は肥後藩主細川さんより手配され下関で捕らへられた。
石原連四郎、増見某は入佐唯右衛門を熊本迄、無事に送り届けなければならないと言ふ重大な使命と責任を負かされていたから途中での仇討は到底許されなかった。それ故に事情を打明けて再三懇請したので武士の情けにより、後でのお咎めを覚悟の上で仇討を許したものであった。けれども石原連四郎と増見某に対して幸にお咎めはなかったとの事である。
私は、此の記録を見て其事実を確かめんと思ひ、昭和十四年五月二十六日玉名郡石貫村大字石貫に古老を訪ねて字虎取と云ふ所に往って七十七歳の老嫗の北田寿さんと云ふ人に就て糺したが、其見分せし事実を詳細に語り且つ其場所も指示して呉れた。以下其話である。