掃荅録(二)熊本日本談義 昭和二十六年六月号(宇野廉太郎)

熊本市春竹町に盲観音と云ふ、ささやかな観音堂がある。
本荘の方から行くと、井手に架した観音橋といふ石橋がある。それを春竹の方へ向かって進むと、本荘と春竹の境を一歩踏み越した右側の一寸入り込んだ所である。
其所に明治四年四月十六日に親、夫の敵を討った後、双方の菩提を弔はんが為に建立したと云ふ法塔がある事を知った私は、其苔莓(こけ)を払って見んと思ひ、昭和十四年五月十四日に往って見たが、境内といっても僅かに空地があるばかりで、あたりに塔らしき何物も見当たらず、只堂の向かって右側に三段ばかりの台石が傾いて前には小さき石の水盤が据へてあり、上部の台は蓮花を俯せて其下部に蓮の茎菜を配した彫刻を施してあるが、其外には何もないところが其後方は極く粗末な板塀が接近していて其下から下水が時々流れこんで来るらしい。
其処の湿地の塵芥の下に大半埋まった塔石の様な物があったから、ステッキの尖端で塵をかき除けて見ると、丸い柱状のものであったから、やっとの事で引起こして見ると、果たしてそれが塔石であった。
それは巻軸の形で上方に少し軸が出してある。そして其題簽(題署)に当たる所を正面として区劃し、上部中央に「報賽」(お礼参り)の二文字を冠し、其下に「念彼観世音、衆怨悉退散」と観音経偈の文句を二行に刻し、其裏に当たる所の右寄りに「明治四年辛未歳四月十六日」と一行、又、左寄りに「大願成就下田氏」と刻してある。
私は、引起こしはしたものの、台の上に載せる力はもたぬから、台石の横に立てておいたが、此塔に限らず夫々多少の由緒を持った石碑等が斯うして段々と何時の間にか無くなって、其事蹟が遂に堙滅に帰して仕舞うことであらうと思ふ。
殊に熊本市の如きは、目下市区の改正の為に、歴史的にも保存を要する様な墓碑其他が定められた計劃の為め何等顧慮せらるる所もなく破壊せられ、取除かれてゆくといふ事は実に残念なことである。

市の発展の為には幾多のこんな犠牲を払わねばならぬといふことは又己むを得ざる事ではあらうが、何とかあとに残す工夫が必要ではあるまいか。
扨此塔の主の下田といふは如何なる人で、此の塔を建てたのは何故かといふ事が是から述べようとするのであるが、之は下田平八の未亡人が明治四年四月十六日に夫の仇、入佐唯右衛門と云ふ者を十年の永い年月暫時も忘れず、平八の忘れがたみの恒平に復讐せしめんと、千辛万苦の末、本懐を遂げた仏恩報謝の為に建立したのである。
平八の未亡人は、名を田鶴といひ、松井直記(家老職にて三千二百石を食み古城に在邸)の旧培臣古沢寿一郎の娘で、安政四年五月、二十一才の時に平八の後妻として嫁にしたのであるが、中々貞節な者で、平素舅姑(しゅうと、しゅうとめ)への仕へ方は云ふに及ばず、子供の教育も行き届き、其他万事の心得方も申し分なく親類は勿論、近隣の人々からの誉められ者であった所が、其嫁娶(嫁に行く)後、五ヶ年目の文久元年四月六日の夜、夫平八に中津喜平といふ兩人が如何なる意趣ありてか、同役入佐唯右衛門と云ふ者の為に殺害せられ、入佐は其儘竜の口の、藩邸を逐電した。
此時、田鶴は二十五才であったが、此凶報を得た田鶴の悲嘆は云ふまでもなく、其時、家内は老体の姑に叔母並に嫡子(前妻の子恒平九才、二男哲三(実子)三才、次に女子(二才))の七人であったが、夫が非命に斃れた為、藩の諚として家名は断絶したから、家、屋敷、家財までも売り払ひ、本荘浦の木鶴から高田原の御仲間小路(後の仲間丁)に移転して、網の糸や、木綿紡ぎ等を以て暫く生活していた。