玉名石貫の仇討を熊本藩が激賞 掲示した高札を書き写した古文書

明治4年4月16日 日本最後の正式の仇討あり この仇討に関し 明治4年7月13日藩庁の高札に掲示された文書を 下益城郡永村役人(城南町)成松節次が書き写して今に残る 仇討賞賛の古文書
平成15年8月古文書を入手

■掲 示
ことし四月十六日玉名郡にして父の仇をうちし下田恒平といへるもの継母田鶴事、舅姑に事へて婦たる道を失わず. 初て嫁せしより五年目夫平八むざんの死を遂げし後打続き舅姑重き病にかかりしに介抱行届き. 再び配偶をすすむる者あれども受けず. 三人の孤を教育し悲涙貧苦の床に年月を送りし内. あたり近き宮寺へ日夜歩みを怠らざりしが. 若婆の しげしげの通ひ路人の口もいかがと中比さとり其祈祷は止ぬれども. 心の祈願はいよいよ切に いかにもして思ふかたきをねらわんと其情誠の通ひけるにや. 年積もりて十一年其子恒平復讐 ゆきらる断茂皆其苦心の出せる所也. なかりせば誰かこの母の志を継がん. 比母なかりせば比子の志いずくんぞ今日に貫く事を得ん ここに其略を掲示してこれを諸民に告ぐ. 猶嗟嘆の余り千匹の金子さし遣し候也
 辛末七月十三日   藩庁



■致変死候下田平八子 下田恒平

其父下田平八儀. 先年於東京同役入佐田唯右衛門より 逢殺害. 同人儀其侭藩邸逐電いたし行衛不相分候処. 其方儀今度遂復讐候に付. 父跡目申付 家禄三十五俵遺之也
 辛末七月十三日   藩庁



■致変死候下田平八後家 田鶴

其方舅姑存生中事方宜敷. 子供教育行届夫平八変死後は猶更貞烈有之. 今度 摘子下田恒平復讐儀も. 畢喬田鶴兼て復讐の宿意を抱き精神貫候処より恒平儀候 孝義相立候場に致候様子相聞. 奇特之至に付金子千匹賞賜申し付候也
 辛末七月十三日   藩庁




成松節次は下益城郡永村役人(城南町)で藩庁の掲示をメモにとった。
廃藩置県は辛末〔明治4年〕七月十四日詔書発布。



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この文書に記載されている古文書で「玉名の仇討」は、
「日本最後の正式の仇討」と判明致しました。
平成15年8月の事でした。(平成2年、碑 建立)