1923
(大正12年)
(大正12年)玉名市に生まれる
1930 ・高瀬町幼稚園 第一回卒業生(現在は第一保育園となっている)
悪ごろだったので、よく線香持って、お地蔵さんの前に立たされた。
1936 ・高瀬尋常高等小学校 卒業
1941
・熊本工業学校機械科 卒業
・満州炭鉱株式会社入社。阜新炭鉱の露天堀孫家湾鉱業所配属
(孫家湾鉱業所では、2〜3年前まで匪賊が時々出ていたという。)
1944 ・3月満州陸軍自動車第70大隊に入隊、東満州斐徳在
(お花畑とスズランの花の中で初年兵教育、技術幹部候補生として零下20度Cの中で上半身裸体で早駆。)
・技術幹部候補生として、12月25日東京に向けて、斐徳を出発、31日牡丹江を経て、朝鮮経由、玄界灘を渡る。
1945
(昭和20年)
・1月7日 立川駅に着いた途端、上空に、B29が1機飛来、日本の戦闘機が体当たりをして撃墜、日本戦闘機の乗員は落下傘降下で助かる。初めて日本の戦争の厳しさを知る(その当時までは、満州は平穏、無事であつた。)
・立川陸軍航空整備学校に入学。熊工機械科3年先輩の川上哲治中尉(巨人9連勝の監督)に機関砲を教わる。7月25日卒業、見習士官任官(教官要員として、1人学校に残る。)
・8月15日終戦、見習士官歴20日間(おそらく見習士官としては、在籍が一番短かかつたのではないか。航空隊だったので、8月23日には帰宅している。)
・陸軍航空技術少尉任官。9月1日付正八位を授与される。
・終戦後、原隊の満州自動車第70大隊は昭和20年南方に転進中、上海沖に於いて敵潜水艦に襲われ、撃沈されたと聞く。全員戦死したものと思はれる。(零下40度夜半に歩哨に立ち、酷寒が明けて四季の花が,一斉に乱れ咲くお花畑と、すずらんの花の中で,一諸に初年兵教育を受けた戦友にはその後、1人も会っていない)(残念、黙祷)
1947 ・終戦後、若い者が町に帰って来た。其の中で、絵の会FS会結成、赤星亮衛、荒木尚、吉田親氏等と共に研修。(赤星亮衛は、美智子妃殿下の「ねむの木の子守唄」の楽譜の表紙を描いている。玉名博物館蔵)
(1970年 紀子妃殿下御臨席のもと、九段会館で全国PTAの表彰があつた時、廊下で、画商がプロの荒木尚の絵「少女の絵」等多数を販売していた。びつくりした)
・西日本新聞社嘱託記者。3年間。
1949 ・高瀬町青年団長、玉名郡青年団副団長、県美術展入選
(「高瀬町」はその後、玉名町、玉名市に合併して町名は無くなり大字だけが、残つたが、「高瀬」の名前は歴史的に大きく残っている。)
(2007年発信のホームページ「高瀬宣教師渡来記念碑」参照)
1951 ・玉名郡小田村助役 迫丸祐海 妻タツノの長女静代と結婚
1963 布団店経営(1997年営業終止)
1965 ・甑島西岸にてシイラカンスを釣る。釣友、岩田慶彦氏と相談、こんな化け物は船頭が運ばないだろうとその場で逃がす。(その後、鶴屋デパートのシイラカンス展を見て、シイラカンスに、間違いないと岩田慶彦氏が確認する。)
1969 ・玉名町小学校PTA会長、3年間 玉名市PTA連絡協議会会長
1971 ・全国PTA連絡協議会にて、東南アジア9ヵ国訪問。
(アンコールワット観光。 翌年カンボジア内戦始まる。)
1972
(昭和47年)
・橋本二郎市長の委嘱を受けて、(岱南中学校PTA 会長,大地主の)上田健二郎氏と共に、新玉名中学校予定地の地主を一軒一軒訪問して、買収に当たり、一ヵ月半で全て終了、新玉名中学校と、(旧玉名中学校の跡地に)玉名総合庁舎が新築落成。市長と、汐持助役から感謝される。(旧玉名中学校が移転しない時は、総合庁舎は現在のナフコの地に建設する予定だった。玉名市としては大打撃の筈だった。)
・新玉名中学校PTA初代会長
1973 十和産業株式会社結成(福岡マルショク、キーテナントとして営業、1997年営業終止。)
1975 ・山崎組より玉名にゴルフ場を造りたいと委嘱される。
処々方々を検討の上、玉名の現在地に決定。志摩カントリークラブの取締役で叔父の皆島実に連絡して、ゴルフ場設計の専門家に、玉名の現在地を見てもらう。(九州では1〜2番の良いゴルフ場ができると言われた。設計、施工も任せる。)土地の買収は松本課長と迫丸麗志氏が担当する。
・1975年落成式の時、橋本市長の挨拶の中で、玉名カントリークラブの開設で、一番功労があつたのは、岡田正二と、皆島実の二人であると、言われた。岡田正二は、特別名誉会員に推薦される。
・(開場後プロの坂東忠義に就いて研修生の吉村金八と共に研鑽をする。
(2007年熊本中央カントリークラブで行われた、日本シニアゴルフ選手権で、青木功が優勝、吉村金八は6位となる。)(吉村金八の兄弟弟子だった誇りとして、エイジシューターにはなろうと?思っている。岡田正二は2007年で84才である。)
・一級小型船舶操縦士となる。
・玉名ライオンズクラブ会長。
・澤田一精 熊本県知事夫妻 北口博県会議員 杉谷方茂県会議員夫妻と共にシカゴ、プレミアショウに参加。アメリカ、カナダ、ハワイを訪問。(熊本県人会を五ヵ所、シカゴ、トロント、ニューヨーク、サンフランシスコ、ホノルルにて開催。各地にて玉名出身の人々と会う。各地とも盛会。)
1979

・コロンボ ゴルフ場にて(開場100年目で、大きな樹と、フェアウエーに寝そべる牛にびっくり。) 野生のコブラを見る。(スリランカ大使館主催・モニターツアーに参加。)観光大臣が「観光客が野生のコブラを見たとは、はじめて聞いた。貴方は幸せになる」と言われた。(翌年スリランカ内戦始まる。)

1987 ・二科展初入選、肥後銀行玉名支店長、伊勢義氏の好意で、玉名支店で初入選記念展を開催、多数の来館者有り。
・以来15年連続二科展入選。二科西人社展賞
1989 ・サロンド・パリ展にて、サロンド・パリ賞、パリ市民章受賞
1990
(平成2年)
・「日本最後の正式の仇討」の碑、主宰して建立平成15年インターネツトにて発信
1992 ・梅林天満宮の寺中良子氏に、玉名美術協会設立を呼びかける。寺中氏の尽力で、玉名美術協会設立。以来17年間、副会長を歴任。
・熊本県芸術家連盟会員
1993 ・日本一を目指して「繁根木川の鯉を育てる会」を設立。会長
2007年ホームページを作成して経過を報告(今でも私は毎朝繁根木川で鯉の餌をやっている。残念ながら、日本一の鯉は難しかつた。各々事情有り)
1994

(結城了悟著「長崎の天主堂」を見て)「長崎と天草の教会」全147ヶ所を10年間かけて回り、油絵と水彩にて描く。インターネツトのホームページにて発信。
・細川護煕内閣総理大臣主催、新宿御苑での花見の会に参加。

2003 ・玉名中学校に、二科展入選作品油絵F50号「樹表」と、玉名総合庁舎に油絵F50号「フランシスコ・ザべリオ記念聖堂と光明寺」を寄贈。
2004
(平成16年)
・玉名町小学校に、二科西人社展賞、油絵F50号「樹表」を寄贈
・ 熊本中央信用金庫理事長室に二科展入選作油絵F50号「樹表」を掲示。
・「長崎と天草の教会を世界遺産に」のホームページを作成、発信
2005 ・アートスペース大宝堂において個展。多数の入場者有り
・長崎の教会群を世界遺産にする会事務局長 柿森和年氏を招請して(岡田信之経営の熊本市三年坂、ヴエノスアイレスに於いて)講演会開催。
・熊本美術館分館において個展。900名の入場者有り
2006 ・黒糖ドーナツ(株)フジバンビ四方寄工場店舗三周年記念事業に合わせて、吉田高成社長のご好意により個展を開催。1500名の入場者有り。
・長崎の教会が世界遺産に推薦されたのを記念して、長崎市浜屋デパートでイべントと共に個展開催。多数の入場者有り。
・長崎文化放送がイべントと共に個展を取材して放映。
2007 ・3月4日九州朝日放送が「九州街道物語」で「公認された日本最後の仇討」を放映(岡田正二はインタビュー出演。)
(結城了悟著「長崎を開いたコスメ・デ・トーレス」を基に)「コスメ・デ・トーレス生誕500年 高瀬宣教師渡来記念碑」を建てたい。ホームページ作成。平成22年より2年間に亘り玉名市役所を始め地元と交渉を重ねたが、残念ながら不成功に終わった。残念
2008 ・高瀬蔵にて「高瀬夜噺」(450年前高瀬に来た南蛮人(宣教師)についての話)
2009 ・12月24日 玉名・石貫小学校に油絵を贈呈。詳細はこちらをご覧下さい。
2011 ・9月17日高崎哲哉玉名市長より米寿記念表彰状を戴く。
・10月13日〜24日高瀬モカにて米寿記念夫婦展開催。
2013 はがき絵をローマ法王に献納








■取材記事に見る「岡田 正二」

「ようやく念願でありました長崎と天草の全教会の絵をインターネットのホームページに掲載いたしました。」
 こう喜びを語るのは熊本県玉名市に住む岡田正二さん。絵は子どもの時から好きだった岡田さんだが、本格的に描き始めたのは、62歳になってから。「二科の先生の塾に入って勉強し、初めての入選作が「樹表」という抽象画でした。この50号の絵は、熊本中央信用金庫の理事長室に飾ってあります」
 二科展に数回出展して、何を題材にして描くか苦労している時、出会ったのが天草の崎津天主堂だった。「西海の天主堂」というタイトルで出展した絵が、見事に入選。長崎で手に入れた「長崎の天主堂」という本で、長崎県に多くの天主堂(教会)があることを知り、教会巡りを思い立った。しかし、長崎県の教会を回るのは、楽ではない。「長崎の教会は街中にあるもの、海岸や岬にあるもの、山の奧にあるものといろいろな場所に点在しています。交通の便の悪いところもありますから、大変でした。教会の近くまで行って、尋ねても尋ねても所在地が分からず、引き返したこともあります。また、ある時は道に迷って、とんでもない山奥に入り込んだりした苦い経験もありました」
 岡田さんが長崎県のすべての教会を描くことを決めてスケッチ旅行を始めたのは1990(平成2)年、67歳の時だった。70歳を超えてからは夫人と二人で教会巡りを続けた。長崎県のすべての教会、143ヶ所と熊本県天草の教会4ヶ所の全147ヶ所の教会を描き終えたのは2000(平成12)年だった。1ヶ所1ヶ所、船や車で移動しながらの写生だから、簡単ではない。丁度10年を費やし、77歳になっていた。
 長崎の教会を描いて飽きないのは、一つ一つの教会の形が全部違っていることに面白さを感じるからという。
 「上五島では、離島でありながら、こんなに多く、しかも立派な教会があるのに驚きました。もっと多くの人に見てもらいたいと思いました」
 岡田さんが今取り組んでいるのは、上五島の青砂ヶ浦教会の絵。レンガ造りの外観と内部の構造を一面に描こうと苦心している。これからも教会の絵を描いていきたいと思っている。
 ことし8月、長崎と天草の教会の絵をインターネットで発信したばかり。まだ、反響らしい反響はないが、1人でも多くの人に見てもらいたいと願っている。

以上の記事は「聖母の騎士」2003年10月号に掲載された記事を引用しています。




平成6年4月20日 新宿御苑 桜を見る会 (岡田静代 岡田正二)


平成6年4月20日 新宿御苑 桜を見る会 (左より4人目岡田静代 鳩山由紀夫副官房長官 幸夫人)


平成6年4月19日 東京全日空ホテル前 中華レストランにて(細川護煕内閣総理大臣 岡田正二 岡田静代)


平成6年4月19日 東京全日空ホテル前 中華レストランにて(細川佳代子夫人 岡田静代)