熊本朝日放送「九州街道物語り」「公認された日本最後の仇討」
 
  平成19年3月4日(日)、熊本朝日放送(KAB)番組名「九州街道物語り」に於いて、「公認された日本最後の仇討」が放送されました。以下に放送の一部を公開致します。

ナレーション
ここは公認された「最後の仇討」の場所とされています。
明治に入って間もなく、明治政府は近代国家建設の道を阻む弊害を取り除くためにいくつかの「禁止令」を出しました。断髪令、廃刀令、そして明治6年布告された「仇討禁止令」も其の一つでした。
その2年前、熊本藩公認の仇討が行われています。世に言う、公認された「最後の仇討」。
玉名での仇討はどのような経緯で起こったのでしょうか。
天下泰平の世になって、ますます賛美された「仇討物語」。主君や近親者が何者かに殺された場合、一身をかけて仇討をすることこそ、武士の本懐とみなされました。
幕末から明治にかけて、おびただしい数の暗殺が横行しました。
坂本竜馬、大村益二郎、横井小南など、逸材と言われた人々が暗殺された、その仕返しに多くの命が失われた。
こうした殺人とその報復は、近代国家の建設にマイナスになると判断した、明治政府は明治6年大政官布第37号「仇討禁止令」を発布した。これにより、仇討を行った者は、殺人者として、厳格な法の裁きを受けて、罰則が科せられるようになったのです。
この「仇討禁止令」が出る2年前の明治4年1861年4月の「最後の仇討」が、肥後の玉名で行われました。

Q
最後の仇討の発端は?
A
(岡田)肥後、細川藩の江戸藩邸で起こりました。藩邸詰めの肥後藩士、下田平八と中津喜平の2人がささいな事から、同僚の入佐唯右衛門ともめ、殺害されてします。入佐は事件直後、江戸藩邸から姿をくらましました。
ナレーション
一方、殺された下田と中津の遺族は悲嘆に暮れます。
当時、武士が非業の死を遂げた場合は、家名断絶の上、知行は召し上げとなるのが常でした。
下田平八の妻・田鶴(たづ)は家屋敷を売り払い、行商で一家を支える身となりました。しかし、胸中密かに仇討を決心し、まだ9才だった長男の恒平にその意を告げ、懸命に剣の稽古に励ませます。
中津喜平の妻・寿乃(じゆの)も家屋敷を処分して、4人の家族を連れて親戚を点々とします。苦しい生活に耐えながらも、其の願いは一つ。一刻も早く犯人を捜し出して仇を討ち、断絶された家を再興するしかありません。
事件から10年の歳月が過ぎました。幕末から明治へと激動の時代を刻みながら、江戸期を通して培われてきた武士道の時代が終わろうとしていました。もはや残された時間はありません。そんな時、朗報がもたらされます。
入佐が殺人と脱藩の罪で山口藩によって捕縛され、下関から筑後街道を経て肥後へ移送されることになったのです。
しかし、彼の身柄が藩の手に渡れば、入佐は藩の手によって処刑され、永遠に仇討の機会を失うかも知れません。
この知らせを聞いた下田、中津両家の遺族は、どうやって仇討を果たすか話し合います。そしてワラをもすがる思いで、仇討の便宜を計ってもらうよう、護送役の藩士に頼みこむしかありませんでした。

Q
仇討の便宜を計った人物は?
A
(岡田)護送役の一人、石原運四郎が、出発前に下田母子の訪問を受けました。
入佐を無事に熊本まで連行するという藩命を受けた者が、途中で仇討をさせれば只では済まない。石原は仇討か藩命か大いに悩みました。
しかし後年、神風連の乱に身を投じたほどの気骨の武士であった石原は、自らがいかなる処罰を受けても母子の本懐を遂げさせるのが武士の情けではないかと深く決心し、仇討の願いを快諾しました。

ナレーション
入佐を護送する一行は、小岱山の麓を南関から玉名へ。
そうして、うつろぎ谷へ着いた時、仇討が行われることになったのです。

Q
仇討の展開は?
A
(岡田)まず、付き添いの役人がカゴの中から入佐を引き出し、脱いだ羽織の上に座らせました。
下田平八の遺児、恒平が背後に回って最初の太刀を払い、中津喜平の妻、寿乃が夫の形見の短刀で襟元を突き刺しました。

ナレーション
その後、護送役の藩士は、熊本に帰ると直ちに藩に報告しますが、一切のお咎めはありませんでした。
それどころか、肥後藩は、下田、中津両家の家名再興と賞金を与え、この仇討を絶賛しました。「肥後のサムライここにあり」と藩は高らかに宣伝したのです。

Q
最後の仇討たる所以は?
A
(岡田)仇討そのものは、その後も数件起こっているが、いずれの場合も関係者は、死罪や無期懲役など厳しく処罰され、すべて犯罪として扱われています。
仇討は武士が、国を治めた鎌倉時代から続く、伝統的風習であり、明治に入って、武士という存在が消えてゆく中で、この、うつろぎ谷の仇討が、藩が公認した最後の仇討となったのです。

ナレーション
最後の仇討が行われたこの年、明治4年、1871年、廃藩置県が実施され、名実ともに日本は近代国家への歩みを始めるのです。「最後の仇討」は、武士の時代の「最後の仇花」でもありました。
「盲観音堂」・・・下田平八の妻、田鶴が仇討の成就を祈願した。
「報謝塔」・・・仇討成就のお礼参りに寄進された報謝塔。


(左から) 岡田正二 カメラマン ディレクター・江崎康一


収録中 (株)KBC映像スタッフと


収録中 岡田正二