然るに田鶴は、変事の足下から胸中窃かに復讐の念を抱き、本荘居屋敷の近辺、春竹村の内なる盲観音への祈願をかけたが、老人、乳飲子兩人相手で思ふ様に参詣も出来ず、夜は皆の者の寝静まってから、朝は未明に雨戸を明けて、裏路から窃かに参詣し、御仲間小路に移ってからは、近くの西岸寺まで、朝、暮の内、あしあしに参詣していたが、若しくも世間の人から、あの後家は朝早く西岸寺から帰るのを見うけたとか、又暮方寺に参るが怪しい者などと、風評でも立てられては自身の為ばかりでなく、寺のためにも宜しくないと心付き、観音へ相断り参詣を見合わせたが、願を立てた後は毎朝断食にて祈誓していたから、一兩年来、気力疲労したので姑が見兼ねて、強いて留めたから其後は朝毎に塩気を断ち、十年以来継続していた。
然るに、下田の家名立兼るに就いては、平八跡目は其儘にして、祖父熊之進、亡父恒蔵二人共士席に列した家筋であるから、姑存命中に養子を願ひ見たらば或いは家名を立て下さるであらうとの事を聞き、縁家の山中十之助が專ら其世話をしがが、其時分若年の養子は絶て手に入らず、寧年長の者なら居るから、之を田鶴に配偶せしめたらと其趣同人へ申聞いたが、田鶴は中々聞き入れず、是非共子供成長の上は豫ての本望を遂げさせ度いといふ存念で、終に其情実を姑へ打ち明けた。所が姑も之に感じ十之助へは姑より程能く断った。

恒平は父、平八存生中から弟の沼山津郷の郷土島崎眞八方へ預けてあったが、田舎に置いては将来の為能くあるまいと心付き、十四才の頃から田鶴が手許に呼取り二男哲三諸共に異腹、自腹の差別なく専ら文武の稽古を励ませ、貧困の中から稽古入費、書籍等相應に買ひ調へ遺し又舅姑共に、兼々病身にて打臥勝で、中にも姑が先年手強き小瘡を煩ひたる時などは凡そ百日位も床付で敷布団は膿汁にて糊をつけた様に成りたるを一兩日越しには是非洗濯し、二便の世話は勿論、介抱万端懇切に行届いた。
其後姑は重病で慶應二年の七月に死亡したが、田鶴は窃かに自分の衣類を売払い薬代其他の入費を償い始末看病も行届いたので姑は死期に臨んで、田鶴が孝養の次等は縁家の者共が承り置きて、ゆくゆくお上へ御達し申し上げよと呉々遺言したとの事である。
又、平八の遺骨は東京の白雲庵に埋葬してあったのを深く後年の事を考慮し、七回忌の節、種々と心配して上河原の先祖の墓所に改装した。

こんな事で種々入費もかさんだが、曩きに売払った家、屋敷代金拾五貫匁の内拾貫匁丈けは其時別段に復讐用金の積もりで里方の旧主松井家へ預け置き、如何に貧困に迫った場合でも決して手を付けずに居たから、明治三年に恒平が小倉迄探索にでかけた時の路用を始め、其後復讐に就いての路用共、多額の入費も掛かったが、聊かも親類縁者難題に成らずに済んだ。
而して唯右衛門が石州浜田(大分県竹田)へ居るといふ事を聞き込んだについては、自身復讐に出かける筈であったが愈手を下すには男子でなくては若し仕損じでもしたらと内輪の咄合で出発を見合わせ、叔父真八がついて行く事になった。
然し、恒平は畢竟、田鶴が平生の教訓、且つ路用の貯へまでも行届いたからこそ大義も相立ち終に多年の本望を達したのは全く田鶴が其根底を固め成した為である。
又慈に感ずべき事は、此本懐を首尾能く遂げたに就て入費金の剰余で前記の通り、祈誓籠めた観音への昔年の報謝を表し、且つ双方の菩提を弔はんが為に法塔を建立し、其外池田郷楢崎村の曽我神社を始め、三ヶ所の神社へ絵馬を奉納するなど実に殊勝な事であった。
而して平八死後は、近隣縁家等の吉凶付届けの外は物見宴席間敷場所へは一切遠慮し、彼れ是れ細心の注意なし殊に舅姑への仕へ方、子供の教育、夫への貞操の点に就いては、前記の通り少しの間然する所もなかった。

一方平八と共に遭難した中津喜平の未亡人は名を寿乃と言い、元御料理人であった、亡き横田慶助の娘が弘化三年頃二四才で喜平に嫁した。之も至って貞節な婦人で、兼々夫拜に姑への仕へ方もよく、夫喜平は少し風変わりの気質で中々気むづかしく仕へにくい上に、疳癪強く無理な申付等もあり時には、打擲する事もあったが能く堪忍して決して之に逆らふ様な事なく、至極柔和に事へていたが喜平が平八と共に凶刄に斃れた事を聞いた時の悲歓は云ふ迄もなく、是れを直き復讐の念は起こったが、姑や九ツになる女子と且の少し気の足らぬ夫の養弟卯七郎と云ふ者があったから、自分の思ふ様に