当日は雨天であったが前の道路(石貫川畔の南関に通ずる道也)を山籠に乗せた人を荷ひ、其側に年の十四、五才と思はるゝ男の子と大人と二人附き添ひ(恒平と眞八なるべし)南関の方から高瀬の方へ行くのを当時七才の私は自宅の前で遊んで居たら、何気なく打見やり居た所に隣村某女が高瀬に買い物に行って帰りに山鉾の先に魚の干物、一からげを突懸けて通りがかりに今そこで仇討があった、早やう往って見なはりと云ふたから直きに母に告げた所が母は私を連れて走り出して行ったが、最早其時は首は打落してあって、咽喉のところを突いてあった。
雨降りの畠の畔の草は赤黒い血に染んで、子供心にも実に物凄く覚えた。
其日、丁度上の段の畠に唐芋植えに来て居た某夫婦が話に、何か異様の物音がしたから上から窺ひ見た所が、山籠の中から後手に縛り上げられた男を引出して、其の者の羽織をぬいで其れをしき其上に座らせ縛ったまま首を打落した。
又一人の女(寿乃なるべし)がどこか突きたる様子であったが、首の落ちたはずみに其骸は下の段にころげ落ちたのを縄をとっていた者が上へ引揚げたといった。其死骸は一旦広福寺に仮埋葬したが、後日熊本から来て掘り出して持っていったと聞いた。
場所は広福寺へ行く目鏡橋の少し上み手の右側の谷間で俗に(ウツボギの谷(現地の人は宇津呂木の谷と言っている))といふ。
今は道路から谷の入口に一軒の農家がある(現在松浦繁さんの家)其前を通って前面の丘に添ふた方の行詰に堤防の様に見ゆる高地がある其下である。
是が多分、鎌倉時代以来、我国の傳統的風習とでも云ふべき復讐の最終のものであったらう。



■附記
どうして玉名郡石貫村迄出向いて行って仇を討ったかと云へば、入佐唯右衛門は肥後藩主細川さんより手配され、下関にて捕へられて熊本迄護送されていたが、七十才の老令と病気の為にとても熊本迄命が保つまいとのことでせめて命のある内に、自分達の手で討つために出掛けて行ったものである。
■もう一説によれば
入佐唯右衛門は老令で病弱の体にも拘わらず、唐丸駕から出されて自由な身になったので逃げた。田鶴は手裏剣の名人であったので手裏剣で逃げるのを防いで斬りつけ宿望を達したとのことである。
先祖から傳へ聞いた話では名乗りを上げたので、観念して首をだして討たれたと聞いている。
■仇討をした場所
玉名郡玉名市石貫で鶴田安男さん所有の畑の畦である。
仇討禁止令の出たのが明治六年二月五日。
田鶴が復讐の祈願をかけて参詣した盲観音は現在の熊本市弥生町一丁目にあり。
■盲観音に就て
盲観音が歴史的に由緒ある観音様である事がわかったので、傍らに住む菊川卓二氏が私有物として佛体を自宅に持込み現在に至っている。
尚、地元には保存会が設立されていて毎月十八日には盛大なる祭事が催される。保存会の人達が御佛体を元に戻してくれる様に菊川さんに交渉したけれども埒があかず、そのうちに現在の出水町国府六二四(国府四丁目四-四七)に家を新築。其処に引越し移転して今も自宅内に安置されている(現在は卓二氏は死去され息子の恭二さんが居られる)。
菊川さんの家では、盲観音様の御開帳は年に二回ある。四月十八日と七月十日。
弥生町には、観音堂も新築され(堂の最初のものは東向に建立されていたもので新築の際現在の南向に変えられたものである)弥生町の観音様は本蔵院の住職が新しい御佛体を購入寄附されたものである。