■ 四国産の緑泥片岩の立派な碑石が
建つている
■ 然し玉名市の観光案内に載っていない
(これは建立資金募集当時、玉名市当局に秋月藩の臼井六郎が起した明治12年の仇討が最後であると異論が寄せられたのに起因する。)
─臼井は無期懲役─
最後の正式の仇討とは
石貫の仇討の後にも、臼井六郎や金沢の明治の忠臣蔵と呼ばれている仇討もあつたが、これらは総て切腹なり懲役の厳しい刑罰が課せられている。
この他にも数件の仇討が起こつているが、総て犯罪として扱われている。これらに比べると石貫の仇討は、仇討禁止令発布の2年前に起こり、石貫の仇討は、奇特であると熊本藩が激賞し断絶されていた家名が仇討成就後再興され、又藩府より嗟嘆の余り賞賜の金子を賜るなど、正式の取扱いを受けている。
又仇(かたき)を下関から熊本まで護送する重大な役目を負つていた役人も藩に届け出たがお咎めはなかつた。
日本最後の正式の仇討は、玉名石貫の仇討が最後である。
仇討ちの日 明治4年4月16日(1871年)
仇討禁止令発布 明治6年2月5日
碑建立 平成2年1月20日
建立費 2,028,000円
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